chapter1


 綺麗な星空。そびえ立つ巨人。
 その前に立っている全身真っ黒な女の人。誰かを守るようにして立っている白一色の女の子。
――あれ? あの白い子。どっかでみたことあるような……。
 その女の子の後ろに倒れている人影が、ちらりと見える。
 あまりにも見慣れている、忘れようにも忘れられない人影。
――女の子に守られているのは、まさか……。
「おい……嘘、だろ?」


 もう春だというのに、妙に肌寒かった。
 もともと朝が弱い上にこの寒さだと、僕――山田祐一はひとたまりもなかった。
「ゆうくん早く起きなさーい」
 あぁ、我が安眠を妨害するのは誰だ。……僕の母親だった。
「早く起きないと葉月ちゃん来ちゃうわよー」
 その瞬間僕の意識は一瞬にして冴え渡った。もうそんな時間かよ。
 あいつに説教されるのはご免だった。平気で一時間は説教し続けるあいつは、生徒指導の教師並みに面倒かつうるさかった。
 僕は急いで制服に着替えようとした……がまだ高校に入って間もないため、新しい制服に慣れておらずけっこう手間取った。
 着替え終わると通学鞄を持ってすぐ自分の部屋を出て、朝食をとるためキッチンへと向かった。
「おはよう母さん、葉月来てる?」
 母親の顔を見るなり、訊ねてみた。
 すると母親は一瞬ポカンととしていたが、急にクスクスと笑い出した。
「もしかして、本気にしたの?」
「嘘かよ」
 僕は思いっきりため息をついた。この手には何回もひっかかっているのだけど、全部が全部嘘と言うわけではないのだから怖い。
「ごめんなさいね、あんまり寝起き悪いもんだから……」
「葉月ネタはもうやめろって、しゃれにならないから。っといただきまーす」
 母親と二人で朝食を食べる。父親は、外国で何かの仕事をしている。何の仕事かは知らないが毎月ちゃんとウチに仕送りをしているから生活には困っていない。
 もっとも、僕が生まれたときにはすでに父親は向こうにいっていたようだ。つまり、僕も父親も、お互いに顔を見たことがない。まぁ、今更父親面をしてくれと頼む気はさらさらないが。
「ふぅ……ごちそうさま」
 まだ朝食を食べている母親をおいて、使った食器も片付けずに僕は家をでようとした。
「いってらっしゃい。……最近なんか物騒な事件起きているからあんまり遅くに帰っちゃだめよ」
「はいはい。いってきまーす」
 僕は玄関で靴を履くと、ドアを開けた。
 別にこのまま一人で行ってもいいんだが、葉月がうるさいから一緒に行かなければならない。まだ高校生になったばかりで誰もそんな噂をする余裕がないからいいものの、そのうち嫌な噂が立つことだろう……にも関わらず、一人で学校に行くと葉月は怒る。全くあいつの考えていることはよくわからない。葉月曰く、小さい頃から続いている習慣を簡単にやめることができない、だそうだ。
 というわけで、僕は隣の葉月の家へと向かった。
――ああ、それはそれで緊張するなあ。
 門の横にあるチャイムのボタンを見て軽くため息。
 少し悩んでから、押さないことには何も変わらないと思い、ボタンに手を出そうとしたその時。
「おっまたせー。ごめんごめん」
 僕の悩みの元凶――佐藤葉月が玄関のドアから出てきた。
「っていうか珍しいね、ゆうちゃんが私より早いなんて」
 まず目についたのは背中のなかほどまでの長さの結っていない黒髪だった。どちらかというと小さな顔に目はパッチリ。その目が僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
「あぁ……あれだ。母親にさ、起こされた。早く起きろーって。ていうかそれやめろ」
「え? 何を?」
 言っても無駄なことは百も承知だが……僅かな希望に胸を膨らませて。
「呼び方。僕もう高校生だからなんかちょっと……ね」
「もう、そんなこと言って照れなくていいのに。ほんとシャイなんだから……」
 無駄だった。
「そんなことより、早く行こ?」
「ああ」
 葉月が先頭をきって歩き出した。
 昔からそうだった。どちらかというと、僕は葉月に引っ張られる方だった。
 かといって、葉月がお転婆とか勝気とかそういうわけでもない――今思えば単に僕が流されやすいだけだったのかもしれない。そして今も。
 僕は葉月の後ろ姿を見ながら歩いていた。黒髪が揺れている。揺れるたびに、女の子特有のいい匂いがかすかにする。
「ほら、早く行かないと遅刻しちゃうぞ」
 不意に、葉月が振り返った。僕はなぜかドキッとした。
「う、うん」
 僕は急いで返事をした。
「なんか顔赤いよ? 風邪でもひいた? 熱でもあるの?」
「いや……早く行こう? 遅刻しちゃうよ」
 僕は葉月の隣をさっさと歩き出した。
「あ、待って待って」


 僕と葉月は違うクラスなので、生徒玄関に入ってからすぐに別れた。
「ふぅ……」
 いつからだったか、何故か僕は葉月のことを変に意識するようになっていた。
「別に幼馴染だから意識する必要もないようなものだけどなぁ……」
「よっ」
 不意に、僕は後ろから背中を叩かれた。
 振り返ってみると、中学校時代からの親友の高田弘だった。
「あぁ何だ、弘か」
「何だって何だよ」
 弘は少しムッとしたようだった。
「それより知ってるか? 連続冷凍墜落死事件」
――いきなり何かと思えば……っておい、なんじゃそりゃ?
「なんだそれ?」
「えー、ちょ、おま、知らねーの?」
「ああ。朝は時間がないからな。テレビ新聞は見てない」
 弘は頭を抱えた。
「朝ぐらいはニュース見ろよ」
「朝だから見れないんだよ」
 実際そうだった。葉月が迎えに来るから幾分マシなものの、それでもけっこうギリギリだった。テレビを見ながら朝食なんて夢のまた夢だ。ちなみに新聞は頼んでないから元々ない。新聞という出版物はけっこうかさばるもので、読み終わった新聞を置くスペースがないというのが現状だ。
「まぁいいや。連続冷凍墜落死事件ってのは……」
 話し始めた弘を遮るように、ショートホームルーム開始のチャイムが鳴った。
「あぁん畜生。お前、どうせ暇だろ放課後」
「いや暇じゃない」
 僕は帰宅部であったが暇なことを決めつけている弘の口調が癪に障ったので、ちょっと嘘をついてみることにした。
「はぁ? 何だよ、葉月ちゃんとデートか?」
「……いや。暇だよ」
「なんだそりゃ」
 呆れたようだった。というか、もう少し踏ん張れよ、僕。
「まぁ、とにかく放課後教室にいてくれよ。ちょっと話があるんだ」
「わかったよ」
 僕はため息と共に呟いた。

 一時限目からの日本史はとてつもなく眠い。
 まるで日本史担当の教師から発せられる言葉が、睡魔となって僕に襲い掛かってくるようだ。
 しかし……。
 寒かった。
 なんか。
 世界が死んでしまったかのような感覚。こころなしか生臭いような気もする。
 ここ最近こういった変な感覚がする。臭いも一緒だ。もともと、三年ほど前に交通事故で生死の淵から還ってきたときからこの感覚はしていたのだが、最近ほど数は多くなかった。
――嫌な感覚だ。
 三年前の交通事故。僕は、大型トレーラーに撥ねられた。向こうの信号無視だった。
 僕は昏睡状態に陥った。
 おそらくその時見たであろう夢を僕はよく覚えている。
 人間の体に蛸のような頭部。手と足には鉤爪のようなものがついており、背中には蝙蝠の翼。
 それが、ただ立ちすくんでいる僕に一歩一歩、ゆっくりとしかし着実に近づいてくる。
 そのぶよぶよした肉塊がすぐ目の前に迫った時だった。
 突如現れた純白の影が横から僕を突き飛ばした。
 真っ白な服を着た少女だった。
 悲しそうに微笑み、僕に向かって何か喋っている。
 涙が。
 つるりと彼女の頬をつたい、
「おい。起きてるか、山田」
「……」
「こら。やーまーだー」
「……あ、すいません」
 始め日本史教師が誰に言っているか理解不能であったが、どうやら僕に言っていたようだった。別に寝ていたわけではないのだが、どうやら寝ているように見えたらしい。
 日本史教師は軽く舌打ちをして僕の席の横を去っていった。
 僕はまた、考え事の続きをはじめた。
 夢は、白い少女が涙を流すところで終わっていた。
――ま、所詮は夢。幻想だ。あんまり気にしないことにしよう。
 交通事故が僕に与えた影響は二つある。
 一つは、先ほどの”世界が死んだ”ような感覚がするようになったこと。
 もう一つは、幽霊らしきものが僕に視えるようになったこと。
 幽霊らしきものが視える――といっても死んだおじいちゃんが視えるとかそういうのではなく、うっすらとした白いもやのようなものが視えるのだ。
 この教室の中もそういうものでいっぱいだ。
「ここ、テストに出るからちゃんと覚えとけよー」
 日本史教師の声で現実に引き戻された。日本史教師は板書を指差し、ちゃんとノートとるように、とかなんとか言っている。
 あ、そういえば入学早々テストあるんだったっけ。
 僕は本日何度目かわからぬため息をついた。
――勉強は嫌いだよ。本当に。


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